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僕たちはどう生きるか〜With/After COVID-19を睨む3つの姿勢〜


お久しぶりです。タテマエ主宰の野田です。

前回書いた記事「石積みからの手紙」が2020年6月なので、概ね1年ぶりの投稿になります。



これを読んで下さっている方は、大学生なのか、社会人なのか、そのどちらでもない方なのか、分からないので恐縮ですが、この1年間…正確にはCOVID-19が国内にも拡がり始めた1年間と数ヶ月は、率直に言って、どうでしたか。



どう過ごしていましたか。何をしましたか。何を考えましたか。

或いは、できなかったことは何ですか。


納得のいかなかったことや、理解できなかったことは何ですか。

積み上げたものや、失ったものは何ですか。



それぞれに沢山あるのだと思います。僕も同じく、それなりに沢山あります。

あなたがそうであったように、僕も色々な失敗をして、様々な発見がありました。

【僕たちはどう生きるか】というお題に対して、すぐには何も答えられないのも、きっとお互い同じです。



そういう風にして(僕の勝手な片思いかもしれませんが)、たとえ肉眼では見えなくても、画面の向こう側、光回線の果てにいる誰かを殊更強くイメージするようになったことは、COVID-19を経て、より敏感でありたいと思った感覚のひとつかもしれません。直接会ったり話したりすることが一番大事なのは、今も昔も(おそらく、これからも)変わらないですが、オンラインでもオンデマンドでも、その先に相手がいることは一緒です。



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自己紹介

野田満(のだ・みつる)

タテマエ共同主宰/東京立大学都市環境学部助教/兵庫県地域おこし協力隊/ほか兼任、歴任

専門は農村計画、地域デザイン。東京で大学教員として研究活動と学生教育に携わる傍ら、地域おこし協力隊として現場の地域づくりに努める、二足のワラジを履いた二地域居住を実践中。その他、全国各地の地域づくりの研究、実践に奔走。

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0:2020-2021の覚え書き


誰かが歌っていたように、人間は悲しいくらいに忘れていく生き物で、僕もその例に違わず、空気感や息遣い、或いは他者との具体的なやり取り、みたいなディテールにおいては、もはや先週のことですら正確に思い出せないのですが、保存容量ぎりぎりのメールボックスや、当時に綴った原稿なんかを適当に引っ張り出しながら、COVID-19が国内でも広がりつつあった昨年2月からのことを、まずは色々振り返ってみようと思います。



・・・



インターネットのニュース記事に「コロナウィルス」なる単語が頻出し始めた2020年1月末、在京の身でいつ「貰ってしまうか」予測できない状況であること、研究フィールドが高齢者ばかりの農山漁村であることから、僕は早々に出張を一旦全てキャンセルし、公共交通の利用も極力控えることにしました。

今思えば(ある種のミーハーさも手伝って)、自分なりの「新しい生活様式」へのシフトを試みようとしていたのだと思います。



緊張感が続く中、タテマエ年度末報告会の無期限延期をはじめ、卒業式や入学式、学会、シンポジウムが相次いで中止になり、擦った揉んだの末、大学の前期授業もひと月スライドさせることが決定されました。


政府の緊急事態宣言を受け(今思えば、宣言もその解除も、共有Googleカレンダーに他者からスケジュールが書き込まれたような、何やら肌触りを覚え難い感触でした)、山のような資料や文献と共に自室に引きこもり、講義のオンライン化や臨時の学内業務の為に幾夜も凌いで、大勢の学生の前で(実際は13インチの液晶画面の前で)同じ空気を吸わないままに計画論やデザイン論を大声で説き、一方でCOVID-19とは無関係にヤマ場がやってくる論文投稿や原稿執筆の類をどうにか乗り越え、他方で空いたスキマ時間には、まるで煉瓦積みの目地に水が染み込んでいくように、次から次へとオンラインMTが放り込まれて…



それでも、最前線に立つ医療従事者の方々、生活必需品等の社会インフラを担う方々、或いはロックダウンによる負の影響を多く受けた大学生の皆さんに比べれば、僕が被った不利益など可愛いものです(それなりに学びもありましたし、身も蓋も無いことを言えば徹夜はいつものことです)。

とはいえ大学教員もそれなりに、否、かなりの熱量を費やして、身の回りの世界を立て直そうと奔走していたのです。



そんな新年度の数ヶ月を切り抜けたタイミングで開催されたタテマエウェビナーVol.03「人と人と」で、這々の体で放り投げた(この時には27インチの液晶画面を新調していました)COVID-19への断片的な考察や見解は、ある意味では社会に対する抵抗でもあり、またある意味では自分の所信表明でもあったような気がします。



幸か不幸か、この状況で半期サバティカルを頂いたこともあり、後期からは生活拠点を東京から淡路島に移し、東京での仕事は全てオンラインで走らせつつ、兼業として取り組んでいる地域おこし協力隊の仕事を現地で進める生活に切り替えることにしました。ちょうど東京での業務と現場での業務とを、即地性の有無を基準に置き換えたかたちです。


この半年間の、ある種の実験的な生活の中で、かねてより抱いていた「都会よりも田舎の方が好きだな」という思いが大きくなったことは事実ですが、不思議なことに、「何とも表現し難い都市と田舎とのバランス、見えない共栄共存関係の中に僕は生かされているのだな」という感覚もまた、より強くなった気がします。


おそらく今のままでは、都市と田舎のどちらが衰退しても、僕はその衰退した方に引っ張られて共倒れしてしまうのだろうなと、その時初めて自分のキャリアパスに対する(これもまた、何とも表現し難いのですが)「少しだけ本格的な危機感」を覚えました。

大学教員、地域おこし協力隊に続くパラレルワークの第三手として、独立開業を現実的に考え始めたのもこの時です。



2度目の緊急事態宣言を経て新規感染者数が少し落ち着きを見せ始めた頃、対面授業の部分的再開に伴って今春から東京に戻り、2021年度を迎えた訳ですが、4月中下旬の感染者増による3度目の緊急事態宣言が発令、再度のオンライン授業への移行が確定的となりました。

対面必須の演習科目を後ろ倒しにして、ハイブリッド形式だったゼミも再び非対面に戻して…と諸々の対応を整えた現在、この原稿を綴っています。



・・・



初めの問いに戻って、自分がこれまでの「With COVID-19」で得られたもの、こんな時期だからこそ得られた具体のモノゴトについて考えてみるのですが、さして大層なものは無いようにも思えます。


必要に迫られて中途半端に身に付けた動画編集のスキルや、オンライン講義の為に一通り揃えたAV機器、臨時で請け負った幾つかの論説や寄稿の業績、ぐらいでしょうか。サバティカルで学内業務の大半は免除されていたこともあり、昨秋は100冊以上の本を読みましたが、名著を選び取るセンスの衰えか、物量以上の学びは無かったような気がします。



目に見えるもの、かたちのあるものだけでは、僕は【僕たちはどう生きるか】という命題には応えられそうにありません。



ここまで読み進めてもらっておいて、それではあんまりなので、少し抽象的にはなりますが、この1年間と少しの間で悶々と考え続けた結果、だんだんとかたちになってきた3つの姿勢、或いは心掛けのようなものをここに残しておこうと思います。


何か、もう少し時間を掛けて見つかる結論もありそうで、ペンキが乾き切っていない壁を触って確かめるような危うさもあるのですが、タテマエウェビナーVol.03「人と人と」のチャプター2「With/After COVIDの断片的な考察」の続きのつもりで、気楽につまみ食いして頂ければという思いです。


だらだらとテンポ悪く前置きしてしまいましたが、ここからが本論です。



1:「日常も非日常も越えて実験し続ける」


未だ世界中が激動に振り回される中で、少しずつ社会は、COVID-19を受け入れ始めたようにも見えます。

それは同時に、多種多様な社会的アクティビティが物理空間を超越できるのかというある種の実験が、長期戦に移行したことを意味しています。



あえてシニカルに「実験」という語を用いましたが、結論を先取りするならば、社会は実験と内省の連続で成り立っています。

例えば社会実験と称して週末の数日にトランジットモールを展開したり、数ヶ月間だけ公共交通の料金を下げたりする試みがありますが、誤解を恐れず言えば5年続いた補助金制度や、10年間の時限立法も長期の社会実験であるといえます。

(言い換えれば、全ての実践は実験的意味合いを孕んでいます)



またWith COVID-19を考えることは、非日常が日常化していくプロセスを考えることでもあります。

勿論、感染症の蔓延はネガティヴな非日常の日常化である訳ですが、産業革命やフォーディズムはもとより、生命科学の発達、情報化社会の進展、等々、人間社会を取り巻くあらゆる革新(或いはその崩壊や終焉)も、速度や突発性の違いはあれど、非日常の日常化として位置づけることができます。

例えばここ10数年のGAFAの台頭とそのサービスの普及、自然災害の発生も同様の現象だといえるでしょう。



社会が実験と内省の連続にある中で、昨日の非日常は今日の日常に成り得ます。

そしてまた、何らかのかたちで次の非日常はやってきます。

個人レベルや組織レベルにおいても、日常と非日常という二項対立を越えてとにかく動き続けること、内省を繰り返す(≒実験し続ける)ことが、これからを生きる上で一層求められるのだと思います。



2:「背後の正解を見逃さない」


少し当事者に寄せた視点でWith COVID-19を眺めてみると、その様は、自身のニーズに照らし合わせながら、ZoomやSlack等のオンラインツールの実用性を確かめたり、或いはパイロット事業を走らせたりする、能動的かつ狭域的なトライアル期間であると共に、突如到来した情報化社会への対応可否を急ピッチで試される、受動的かつ広域的な適者生存の期間でもあります。



昨年度のタテマエにおいても、オンラインワークを中心としつつも、状況を睨みつつ現地活動を部分的に再開し、またウェビナー等の新たな取り組みにもチャレンジしてきた訳ですが、ここ最近で僕の中に生まれたのは、「これは大学の新しいかたちなのでは」という妄想めいた確信です。


複数大学から学科学年を問わず志ある者が集い、専門家や現地の活動家との平等な関係性の下、オンラインワークと現地活動とを織り交ぜながら学び合う。


甚だ独り善がりの思い込みではありますが、僕がタテマエを通して実現したかったのは、もしかしたら拠点を持たないキャラバンのような小さな大学なのではないか、或いは雲のように浮かぶ、インカレッジ・ミッション型のゼミだったのではないか、という感覚を事後的に抱くようになりました。



COVID-19の流行に伴って大学の対面授業に制限の掛かる中、僕だけでなく大学教員の誰もが「オンライン教育で全て完結してしまうのであれば、キャンパスはもとより、「大学」という枠組み自体が、近い将来なくなっていくのでは」という疑念を抱いたと思います。


極論すれば、世界中の大学教員がオンライン授業を配信し、受講生がそこから好きな講義を選んで単位を取るようなかたちになれば、大学機関の位置付け自体が大きく変わることになります。

(実際には医大や芸大、体育大等、対面実習を必須とする学部学科が多いことや、オンライン講義動画や資料の著作権問題等、そう簡単に物事が動くことは有り得ないのですが)



タテマエの着想は2017年6月、発足は2018年5月と、勿論COVID-19の存在は知る由もなかった時期でしたが、With COVID-19下の取り組みの中で、半ば後出しジャンケン的に「インカレ/ミッション型の浮遊するゼミ」という特徴が浮き彫りになった訳です。



そしてそれは、今後の大学やゼミの姿を、ほんの少しだけ変えていくことになるのかもしれません。

少なくとも僕自身にとっては、この発想は大学教育の姿を捉え直す重要な契機になりました。



独り善がりが続きますが、後付けの正当性を再発見するこの現象を、僕は「背後の正解」と名付けることにしました。



タテマエ以外の物事においても、例えば生活必需品の買い出しにおける三密回避の為に、昔からある移動販売の存在が見直されたことも、一種の「背後の正解」です。

先程の「日常も非日常も越えて実験し続ける」ことと一見矛盾するようですが、正面の目新しさに右往左往する前に、「だるまさんが転んだ」よろしく落ち着いて後ろを振り返ってみると、事後的な正しさを持った事象を再発見できるかもしれません。



3:「ヴァーチャルの先にいる人間を愛する」


改めて現状を見つめてみると、ZoomやWebEX等を介したヴァーチャルな交流は、随分と市民権を得たように思います。僕が在京ということもありますが、各地の先方とのやり取りではオンラインMTが殆どデフォルト手段として認識されています。

画面越しの意思疎通は味気ないなと感じる一方で、音声と映像、ファイル転送によって大方の目的を果たせる利便性は馬鹿にできず、移動の手間とコストの一切を省くことのできるオンラインワークは、業種にはよっては今後も主流になっていくでしょう。



一方でそんな環境に慣れ切った現在、改めて、画面の向こうには実体を持った相手がいることを忘れずにいたいと思います。



冒頭にも少し触れましたが、言い換えれば対面交流には、ヴァーチャル交流にはない手っ取り早さや、ある種の簡単さがあります。

正確には、声色や表情、目線、仕草といったメタ言語の豊富さを最大限活かすことのできる交流手段が対面です。こうして逆説的に位置付けてみると、「コミュニケーション手段の1つ」としての対面交流の特異さや有用性がよく分かります。

それと同時に、対面では自然とできていた自覚のない優しさや思いやりがヴァーチャル交流では削ぎ落とされていること、そしてそれを何らかの手段で補わなければならないことにも気付きます。



これは何もコミュニケーションに限ったことではなく、例えばAmazonは注文した商品がワープしてくる訳ではなく、物流を担う人間がいて初めて成立します。巨大な土木建造物も一つひとつを突き詰めれば手作業でつくられます。全自動システムであっても、オペレーションのどこかには人間がいます。ハイテクは「中の人」がいて初めてハイテク足り得る訳です。



プロジェクトを効率良く進めたり、生活利便性を高めたり、グループワークを円滑化する為のツールやサービスがどんどん刷新されていく中で、「それを使いこなすこと」に満足するのではなく、更に上位概念として「ヴァーチャルの先にいる人間や、それを担う人間を慮り、感謝し、愛する」ということを、いま一度自戒を込めて、意識し続けたいと思います。



情報や言葉が簡単に時空間を越えていく時代を嘲笑うかのように、COVID-19は対面接触だけで世界中に拡がっていきました。だからという訳ではないですが、感謝や愛もしかるべきところへ、僕らはきちんと届けられるはずです。



おわりに:僕たちはどう生きるか


生きている限り、世界は続きます。

人類の集合知は日進月歩で大きくなっていきますが、その分未知の物事も増えていきます。

現在の常識は、次々と新たな常識に置き換わっていきます。



非日常の日常化を積み重ねながら流れていく時間の中で、

能動的に「日常も非日常も越えて実験し続ける」こと。



自身の内外の思考や事象を注意深く振り返り、

単なる温故知新の意味合いを脱して「背後の正解を見逃さない」こと。



どこかに確かに存在する人間を思いやり、感謝を伝える為に、

「ヴァーチャルの先にいる人を愛する」こと。



これらが、With/After COVID-19を見据えた、

【僕たちはどう生きるか】という問いに対する、今のところの、自分なりの回答です。

この3つの姿勢が、それぞれ実践、研究、教育の3象限を表しているというのは、流石にこじつけ過ぎな気もしますが、しばらくは僕自身もこの3本の矢を足掛かりに思考を巡らせ、学び、自分にできることを精一杯続けていきたいと思います。



思考の整理も兼ねて、勢いでここまで書き綴ってしまいました。

脈絡のない長文をここまで読んで下さり、ありがとうございます。

予断を許さない日々は続きますが、ゆめゆめ御自愛下さい。


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