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僕たちはどう生きるか〜挑み続けること〜

更新日:2021年5月18日







結構重たいテーマですね。



私は、愛媛県新居浜市生まれですが、高校時代は学校の受験体制が嫌で専ら野球部の部活に力を入れていました。

在学当時の母校は、東京大学に何名、その他○○大学に何名合格した。『それがどうした。』っていう感じで、私はいわゆる詰め込み教育にあまり意味を見出せず白けていました。おまけに学内には高校3年まで運動部に席を置く者が殆どいなかったために、先生からも「いつまで部活をやっているんだ。」なんて言われていましたが、意地でも3年までやると決めていたので気にはなりませんでしたね。

 在学当時過去10年以上公式戦の勝ち星がなく、3年生の最後の夏の大会もコールド負けで終わりました。実は、2年生の夏の大会が終われば本当は引退する予定でしたが、その夏の大会後選手が5名となり私が辞めるとチームが瓦解するのではと思い、キャプテンもしていたので踏み留まり、人集めから取り組むことになったのです。一度退部して再入部して投手をしていたチームメイトはのちに慶応に推薦合格しましたね。

3年生まで部活を続けるということが定着しだして、卒業後3年してから1回戦を突破できるようになったのです。愛媛県大会でベスト4に2回ほどなったこともあります。もしかしたら甲子園?って一瞬思った事もありましたね。

 部活終了後、後輩たちのためにも頑張るべきだと意を決して、好きではなかった受験勉強を短期間集中した結果、現役で関東にある国立大学農学部に現役合格することが出来ました。文武両道というとおこがましいですが、少なからず両方を両立させ3年生まで続けるという伝統が始まったのかなと思いましたね。事実、その後野球部OBには何名かの医者もいますね。


 それから、時間が流れて父親のふるさと高知県にIターンして地方公務員となり、平成の市町村合併により合併した過疎の深刻な自治体に関心があり、単身赴任で3年間官舎住まいしながらその地域の課題解決のために奔走しました。このことが、のちに過疎問題に対して強く問題意識を持つようになった契機ですね。


 この経験が、もう少し過疎問題を深く学びたいと思うようになりました。

家族には内緒で中国地方にある某国立大学の大学院を受験して合格したので、説得に時間はかかりましたが早期退職して、進学のうえ過疎問題についてじっくり学ぶことが出来たのです。この時ほど学ぶ楽しさを実感したことはなかったですね。




 現在関わっている高知県いの町神谷北部の5集落は、旧神谷村時代からの神谷地区の中でも最も条件が悪く、道路も狭小のうえ曲がりくねっており、たまには車の転落事故も発生するような劣悪であるために、救急車などの緊急自動車の走行に支障を来たすような地域です。

 今のライフワークは、この過疎の深刻な地域において耕作放棄地を再生した農地を耕作しながら、高齢者の生きがいづくり、健康づくり、家屋の耐震補強工事の推進、子ども食堂、黒ニンニクづくり、味噌づくり、竹堆肥づくりなど多岐にわたりながら、過疎高齢化が深刻で消滅可能性の高い5集落が持続的に存続するための可能性を見出すべく取り組んでいます。

 日々の暮らしの中で、基も重視しているには神谷北部5集落の行く末に関わることですね。

 つい最近、この地域に地域おこし協力隊員が配置されることが決まりました。

この協力隊員とも連携しながら、課題解決に少しでも貢献できるように高校時代に部活存続に挑んだように、多様な協力者と共に地域の未来を描きながら取り組んで行きたいと考えています。






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